ゲキカン!


俳人、文芸評論家 五十嵐秀彦さん

ああ、もう、これは徹頭徹尾ハチャメチャです。

前説から既に単独の小芝居で、早くも意味不明の混乱ぶり。
その混乱の中でスマホの電源は切ってください的な連絡事項はきっちり伝えながら、ほこりっぽい舞台と段ボールの小道具が飛び交って、暗転。
本番が始まって、じきにつくづく思うのだ。

あの前説の方がまだ分かった、と。

この舞台は理解しようと思っても所詮無理だ。この劇はそんなことこれっぽちも狙っていない。
つぎからつぎへと意味不明のセリフと意味不明の群舞?が展開する。

けれど、ただのカオスなのかというと、実は案外にあざといところがあって、物語的な要素がチラチラと顔を出す。
卒業式の日、あこがれの「先輩」に告白しようとするミーコ。ところが牛の大群が(なんだ? 牛の大群ってなんだ?)に「先輩」は踏み殺されてしまうのだ。
そこから「先輩」を蘇らせようとするミーコとそれに協力する友人のふみとミーコの守り神の力士、並行して自力で復活しようとする「先輩」。

ひとすじの頼りの綱であるはずの物語性が、これなのである。頼りにならないことはなはだしい。

これってジャンキーの妄想を舞台化したのだろうか。ここまでつじつまの合わない場面の転換や、意味不明のセリフの応酬、叫び、踊り、飛び交う小道具の段ボール!
全てがチープ感に溢れ、連続性も頻繁に切断される。
観客の共感や理解を拒絶した場面転換を見ながら、観客は(ぼくは)頼りの物語性にすがりつきたくなる。
そんな頃合いを見るかのように、生死の間をいったりきたりする「先輩」と、「先輩」の復活作戦を始めるミーコ、ふみ、力士。
力士ってなんだよ!!

すがりついてみたところで物語はそんな奇妙なものでしかなく、これに頼っていていいのだろうかという疑問がよぎる。
置いていかれてるのか、オレ? とも思う。思うが、お構いなく段ボールが飛び交う。

そう、この段ボール舞台も見どころで、ミーコがネット空間に迷い込んだとき、情報が錯綜する空間を段ボールを使って描き出しているシーンには、かなり感心した。

この舞台に脚本が本当にあるのだろうか。いや、あるのだ。「脚本:谷村卓朗」と明記されている。
帰りに台本を買おう。その実在を確認せねばならない。

糸のように切れ、糸のようにつながる細い物語を観客が頼りにするのは、ふみを演じる五十川由華の力だ。舞台のカナメになっていた。
あとは糸の切れた風船のように舞台をきままに飛んだり弾けて消えたり、方向性のない不規則活動を繰り返す。

どうやって終わるのか、終わらないまま終わるのか。
物語の方は一応のエンディングを迎える。
そこに十分面白さはあるが、その時、ぼくは思った。
この作品は混乱そのものがテーマなのだと。

規格外の舞台だった。常識を全て否定されることの快感がここにはあった。

ぼくは帰りに、やはり台本を買った。
そして思った。この台本を売る勇気と、買う勇気を。
パンクだ。そして、ダダだ。

五十嵐秀彦(いがらし ひでひこ)
1956年生れ。札幌市在住。俳人、文芸評論家。
俳句集団【itak】代表。現代俳句協会理事。
北海道文学館理事。
北海道新聞「新・北のうた暦」(共同執筆)、「道内文学時評」執筆。
朝日新聞道内版「俳壇」選者。
月刊「俳句」(角川書店)「令和俳壇」選者。
著書 句集『無量』(書肆アルス)
1995年 黒田杏子、深谷雄大に師事。
2003年 第23回現代俳句評論賞受賞。
2013年 北海道文化奨励賞受賞。
2020年 藍生大賞受賞。
北海道大学文学部4年 關ひなのさん

 「カオス」・・・混沌。さまざまなものが混ざり合っていて、理解できない状態。複数の事柄によって大混乱しているさま。

 これほどこの言葉がぴったりな演劇は他にないだろう。ヒュー妄『春の新色』のことである。

 開演10分前、演者3名が「上演中の諸注意」を発するところから、この「カオス」は始まる。そして開演5分前、演者4名があるゲームをする場面で、「カオス」は決定的なものとなる。開演後の1時間40分、その勢いは留まるところを知らない。というかむしろ増していく。これから観劇される方には、体調を万全に整えた上で、開演15分前には劇場に到着することを強くおすすめしたい。

 キャストは15名とのことだが、メインキャストである「ふみ」役・五十川由華氏、「先輩」役・遠藤洋平氏、「ミーコ」役・徳山まり奈氏を除いた12名は、皆一人で何役(十何役?)も演じている。数えてはいないが、恐らく100近い登場人物が存在するのではないか。ふと目を離した隙に違う役に早替わりし、「カオス」を支えているのだ。自分の台詞を発するだけでなく、動線、着替えのタイミングなど、気を張らなければならないことは無限にあるだろうに、観客にそれを感じさせることはない。月並みな言葉ではあるが、「役者というのは凄い」と感心せずにはいられなかった。15名全員の熱量に脱帽である。

 本作は春風の様に清々しく場面が切り替わっていくため、どうしても芝居を「こなす」だけになってしまいそうだが、全く予定調和では無いのだ。例えば台詞を嚙んだなら、噛んだ(役としての)自分に「フフフ」と笑ったりした上で、台詞を紡いでいく。大の大人が、大真面目に「カオス」に取り組む姿が最高に痺れる。

 登場人物の多さに伴い、小道具の数も尋常ではない。“変態”の仮面、ピタゴラ装置、“五臓六腑”.....「それ本当に必要?」と突っ込みたくなるものばかりなのだが、案外それらが雄弁で、作品の質を確実に高めている。一体、狭い袖にどうやって配置しているのだろうか。「どうか千秋楽まで全ての小道具が生存しますように」と願わずにはいられない。(千秋楽では小道具即売会をするらしい。)

 終演後、あまりにも訳が分からなかったため、何か手がかりが欲しくて台本を購入した。しかし、読めば読むほど迷宮入りしていった。流行りのネットミームから懐かしの格言、有名人の引用まで、とにかく小ネタが盛りだくさんなのだ。果たして脚本・谷村卓朗氏の演出意図を、完全に理解できる人はいるのだろうか。

 ただひとつ確かなのは、一応物語として成立しているということ。事前にチラシで読んだあらすじから逸れてはいないのだ。何故だ。観ている最中は「なんだこのシーン」の連続だったのに、全体を俯瞰すると「なるほど」と思えてしまう。悔しい。そして、一度観たら、もう一度体感したくなってしまう。悔しい。まんまと虜になっている自分がいる。

 演出家が「好き勝手に作りました」と語るのを聞くと、いつも「いや、誇張でしょう」と思ってしまうブラックな自分がいる。しかしこの舞台は、正真正銘「好き勝手」に作っていると胸を張って言える。これぞ演劇。札幌演劇シーズン2025の特大スパイスになっているに違いない。

 BLOCHは、1列目と舞台が同じ高さにあるため、観客の目の前で物語が展開される。劇中には客席に演者が来る演出もあり、とにかく没入感が凄い。勇気のある方はぜひ1列目に座り、キテレツな登場人物(人外だらけだが)を、キテレツな世界観を存分に味わってみてほしい。

 最後にもう一度。この舞台を理解しようとしてはいけない。劇場に、ただ観客として存在すればよいのだ。あなたにもぜひ、この「カオス」の目撃者になってほしい。

關ひなの(せきひなの)
2003年生まれ。釧路出身・札幌育ちの道産子大学生。
札幌南高校を卒業後、北海道大学文学部に進学。大学では、映画から舞台へのアダプテーションなど、映像と舞台の関係について学んでいる。
観劇が趣味で、年間30本ほどの舞台を鑑賞。なかでも宝塚歌劇の作品に特に魅了されている。
北海道文化放送が運営するWEBメディア「SASARU」のライターとしても活動中。
来春からはテレビ局に就職予定。
作家 島崎町さん


演劇シーズンにひさびさヤバいやつきたな。

小道具、舞台美術のほとんどが段ボール製! はじめはチープに見えるがしだいに味わい深くなっていき、終盤あるシーンでは感動まで誘う。なんだこれは。

舞台上ではその段ボール小道具を使って役者が縦横無尽、意味不明に暴れ回り、つぎつぎシーンを変えながら異常な物語が展開していく。なんだこれは!

まったくローコストなのにハイカロリーな舞台だ。家計にやさしそうな言葉だけど、観終わってじんじんと脳がしびれる。だいじょうぶか? なにか入ってないか? あぶないぞ。

ヒュー妄『春の新色』。異常な舞台だ。演劇シーズンの選考者はこの脚本を読んで選んだのか? この脚本を?

舞台がはじまって僕は、脚本家これ酒飲んで書いてんじゃないか? と疑った。短いいくつものシーンがつぎつぎ展開され、笑えるのもあればポカンと口を開けるだけのやつもある。

大まかに言うと、女子高生が、あこがれの先輩が死んでしまったので心臓を取り戻そうと奮闘するなかで、奇っ怪な出来事やおかしな人たちに出会う話なのだけど、この説明でわかる?

先行する作品としてはモンティ・パイソンの、ひとつひとつはヘンテコだけど流れるようにつながっていく一連のスケッチとか、あるいは松本人志のコント、特に『ビジュアルバム』なんかの感じもあるけど、それよりも勢いとテンションがあって無数に現代的な小ネタを入れこんでいる。

すごい。しかしこれが1時間40分つづくのか!? だいじょうぶか? と思ったけれど、どうしてこの脚本なかなかよくできているのだ。ヘンテコなショートコントが延々つづくと思いきや、ほそーい一本の糸が途切れることなくつづいていって、最終的にそれが物語度をあげてある種の深い感動にまでたどりつく。

ズルいな。ズルい脚本だな。異常でヘンテコな話だと思わせといて、暴走する思考とイメージをうまく暴れさせながら最終的には手綱をにぎり、物語的な感動をしっかり生み出している。単なるバカ舞台ではない(失礼)、これはしっかりとした演劇作品だ。

(しかしそれでも物語の呪縛というものがあるんだなと思った。もちろん物語的なものが誘導路となり、僕たちは安心して観ることができるんだけど、もし物語的な落としどころがなかったら、この舞台はどうなるんだろう? とは思った。先述のモンティ・パイソン、松本人志のコントのように、お笑いの範疇に収まってしまうのだろうか?)

話を戻す。とはいえ、この劇の物語部分は重要で、それを担っている女子高生ミーコを演じた徳山まり奈、先輩役の遠藤洋平は好演。特にミーコの奇をてらわない純朴さがいい。過剰なできごとと出会っても、素の態度で対処する。そこが心地いい。

ミーコの友人で共に旅をする「ふみ」を演じる五十川由華は、かつてほかの舞台でも観たことがあるが、すばらしいコメディエンヌ。もっとたくさん舞台で観てみたい。

常人?の役はこの3人くらいで、あとは全員異常というか……まあ異常だ。でもそれがいい。たとえばミーコのイマジナリーフレンドは○○! なぜ○○なのか説明はいっさいない。アニメ版『銀河鉄道の夜』では現世で出会った人たちが旅の途中で形を変えて現れる。いっぽうこの物語に説明はない!

ミーコとふみの地獄めぐりの最中に出会う奇怪な者たちはいったいなんなのか。しいていえば最終盤のアレがつまり「広大」なわけだから、それらが奇形的に現れてきたということも……まあそんなこと考えても意味ないか。

ともかくこの劇は体感する劇だ。事前にある人から「サーカスだ」と聞いていた。そのすぐあとに「サーカスではないんですけどね」とも言っていたけど。

イメージのサーカス。笑いと異常の博覧会。すさまじい速度で体と脳を突きぬける。実にすばらしい。BLOCHでの公演というのもいい。これぞBLOCHという内容で、小劇場の熱を感じた。暑い夏からすずしい秋へ、変わりゆく季節の気配を感じるけれど、まだまだ札幌演劇シーズン熱いな、熱い演劇の季節はまだつづくなと、夜の帰り道、気分よくそんなことを思った。

島崎町(しまざきまち)
作家・シナリオライター。2025年3月『ぐるりと新装版』をロクリン社より刊行。上の段と下の段に分かれ回しながら読む変な本として話題に。YouTubeで「変な本大賞決定会議」を配信中。 https://www.youtube.com/channel/UCQUnB2d0O-lGA82QzFylIZg
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