止まってしまった時間だ。彼女はほとんどその場を動かない。
intro『ハワイの地平線、テキサスの水平線』。祖母が亡くなり、里子(のしろゆうこ/intro)は夫(小林テルヲ)と娘(中野葉月/清水企画)と祖母宅にいる。葬儀屋の根元(井上嵩之/→GyozaNoKai→)は葬儀プランを決めさせようとするが、そのたびに話は脱線、なかなか決まらない。
里子は中央にあるイスに座ったままだ。夫も娘も、ぞくぞくやって来る親族や近所の人も、祖母の顔を見に隣室へ行くが里子は座ったまま。
人の死に際して、うまく立ち回れない自分がいる。そんなに簡単に“死なせてしまって”いいのか。葬儀のプランを決めていいのか。
ドラマ『北の国から』で、小学生の純君が、葬儀を差配する人物に対してモノローグで不信感を訴えるシーンがある。人が死んだのにテキパキ馴れすぎている人がいるのはさびしいと。年を重ね「分別」なるものを身につけた大人への厳しい眼差しだ。
いっぽう里子はもういい大人で、こどももいる。彼女は葬儀をやらなければいけないと思っている。なるべくテキパキ決めた方がいいこともわかっている。だけど体が動かない。彼女は殻のなかにいる。
葬儀プランはまだまだ決まらない。松竹梅、3つのプランがあると葬儀屋が説明する。だけど里子にとってそれは祖母の死を確定させる作業なのだ。
祖母が亡くなったことはわかっている。だけどその死を受け入れられない。そもそも人の死を「受け入れる」とはどういうことなんだろう。
本来の葬儀の意味は忘れられていき、いつしか儀式として残ってしまった。人の死を受け入れるにはそれぞれ差があって、人より長く時間がかかってもいいはずだ。しかし集められ、悼む時間があり、終了とともに人々は日常に帰されていく。
もちろんその意味は大いにある。葬儀にたずさわる人たちへの敬意や感謝は僕も持っている。しかしこの合理的ともいえるシステムに、こどもの目線から懐疑的なモノローグを語った純君と、殻のなかにあって本心を言えない(自分でも気づいていない)里子の姿は、とても心に残る。
本作は1時間20分。この時間こそが彼女にとっての葬儀だったのかもしれない。殻のなかにある、自分のいちばんやわらかい部分、ふれたとたん痛みが走る繊細なその部分を外に出すための。
本作は1幕1場、途切れることなく進み場所も変わらない。うねうねと描かれつづけ時間の感覚がなくなり、長いのか短いのかもわからなくなる。そうして里子も観客も長い時間をかけて殻が壊れ、中身がどろりと出てくる。
内面と外面の境が溶ける。自分と周囲が混ざり合い、世界と同調してひとつになる感覚。ようやく自分の心の居場所がみつかる。ていねいだ。ああintroを観てるなーと実感した。
中央に位置し、静の演技で複雑な内面を表現した里子役ののしろゆうこはじめ、役者は全員よかったのだが(これもintroらしさ)、特筆すべきは娘役(名前はあえて伏せる)の中野葉月の啖呵「オイオイオイ!」と、町内の人、山之内を演じた宮沢りえ蔵(大悪党スペシャル)の怪演! 里子の姉、悦子を演じた千田訓子(万博設計/田中佐保子とのWキャスト)は大阪で活動する役者で、登場すると空気が変わった。
最後に。本公演はチラシがいい。ゲキカン!であまり触れないところではあるけど、最近ではいちばん目を引いた。タイトルにあるハワイとテキサスを2色の色分けで表現し、境目は地平線でもあり水平線でもある。また、一族(あるいは二族)の長大な家系図をうまくデザインして、本作の登場人物もちゃんといる(このゲキカン!書きながら、あ、百合子さんはそういう位置の人ね、と参考になった)。
長丁場の演劇シーズン。このチラシが多くの人の目に留まり、たくさんの人に本公演が観てもらえることを願う。
ワールドワイドな風景を想起させるタイトルとは裏腹に、舞台はハワイでもなければテキサスでもない、日本の「お茶の間」で展開されてゆくコメディだ。
109 歳のスエ子が大往生を遂げ、家族や近隣の人々、登場人物全員が「喪主をやりたい!」と名乗り出る。本来喪主になるべき息子がこのタイミングで「船による世界一周旅行」で不在という設定が、この奇妙でユーモラスなドラマの仕掛けなのだ。スエ子をめぐる人々の行動は時に自己中心的で滑稽だが、単なる役割の奪い合いではなく「自分がスエ子にとってどれだけ大切だったか」を確かめたいという愛の印なのだろう。
演劇を観るのは追体験だ。目の前の役者が演じることで、私をここではないどこかへ連れていってくれるショートトリップとなる。荒唐無稽なファンタジーで非日常を味わうのも楽しいが、日常の些細な出来事や家族間の衝突から生まれる心模様や悲哀に心を寄せるてしまうのは、わたしが家族を失う年代になったからかもしれない。しかし、「死」は必ずしもネガティブではない、誰もがいつかは死ぬのだ。死という喪失を通じて残された者が見えてくるもの、新たに生まれるものがある。そのコントラストに内包されたユーモアは、滑稽さだけでなく切なさを呼び起こす。そう、昭和のホームドラマが持っていた「皆で笑い、皆で泣く」ペーソスがそこにあるのだ。現代の個人主義やSNSの乱用、コスパやタイパを意識するような社会では、皆が集い語り合う『お茶の間の光景』そのものがファンタジーなのだろう。
「コメディ」の語源は古代ギリシャ語にあり、元々は「悲劇(トラジディ)」と対照をなす作品を指し、必ずしも「笑い」を意味するものではなかったようだ。フランスでは舞台俳優をコメディアンと呼ぶ。英語由来の「アクター」という言葉もあるが、より芸術性の高い意味合いを持つのは前者だ。つまり、コメディこそ舞台の真髄であり、本質なのだろう。作者のイトウワカナさんはこの作品を「喪主コメディ」と称しているが、意図せずとも「コメディ」という言葉の本質を捉え、ユーモアの中にペーソスを感じさせる人間味あふれる作品を見せてくれた。
「ハワイの地平線 テキサスの水平線」というパラレルワールドのようなこのタイトルの由来は本編を見ればわかり、本編では見られないその光景は素敵なチラシが補完してくれている。このタイトルにも何か現代の家族を象徴させる秘密をイトウさんは潜ませたのではないかとわたしは疑っている、たとえば地平線も水平線もそこにいる時には見えない。その場を離れた時にこそ、その壮大な姿が見えてくる、、、、、いやそんな推察は不粋というものか。
この舞台は少しずつ登場人物が増えてゆく進行なのだが、最後に現れる島田悦子役の千田訓子さんが素晴らしく、彼女の登場によって家族の形が完成したのを強く感じた。その様子は札幌のクラシック音楽イベント「PMF」で、アカデミー生のオーケストラにウィーンフィルのマエストロがひとり加わることで、会場に響き渡る音色が鮮やかな輪郭を持った瞬間にも似ている。この役はダブルキャストなので、もう一度この家族に会いに行こうと思う。
追記
本公演には連日アフタートークが設定されているとのことで、そちらも併せて楽しめます。わたしが観劇した日は北八劇場の芸術監督である納谷真大さん。「自分は絶対に喪主をやりたくないから共感できない(笑)」というコメントにニヤリとしながら、かつて納谷さん自身が経験した” 家族の死” をテーマにした作品「オトン、死ス!」で見せてくれたファンタジーなラストシーンで号泣した事を思い出した夜でした。家族ってそもそもファンタジーなのかも。