よく笑ったことは記憶しているのだが、何がどう面白くて笑ったのか、いまいち思い出せない。だがコメディはそれで良い、それが良い。
コメディ『ローリング・サンダー』を観劇した。新人漫画家・木下睦月が、下火となった漫画雑誌『別冊パンジー』の再起を懸けて、担当編集者・勝村一子と共に「純正統派少女マンガ」を描き上げようとする物語だ。と、一応言葉でまとめてみたは良いが、そんな単純な物語では無い。
上演時間は約1時間40分。その9割以上がファミレス「ジェニーズ」にて進行する。これだけ聞くと間延びしそうだと感じるかもしれないが、随所に観客を飽きさせない工夫が散りばめられている。例えば、「おかわりのコーヒー」。観た方には共感していただけると思うが、登場人物たちは皆、常識では考えられない頻度でコーヒーのおかわりを注文する。だが、このやりとりを繰り返すことで、舞台上に流れる時間が自然と可視化されていく。また、序盤では他人行儀だったファミレスのバイトと店長が、時間の経過とともに睦月や勝村と打ち解けていく。終いには漫画の内容に口を出すほどまでになっているから、2人が登場するたびにいちいち目が離せない。そして、舞台中央に設置された漫画のコマのようなスクリーンには、睦月が描く漫画の中身がときおり映し出される。この演出により、観客は漫画の世界を視覚的に体感でき、台詞だけでは想像しきれなかった余白が自然と補完されるのだ。
この作品を観て、私の頭の中にふと浮かんだ言葉は「忖度」だった。クリエイターなら誰しもが一度は直面する、「自分が好きなものをつくるか、売れるものをつくるか」という葛藤。理想は「好きなものが売れること」だが、現実はそう甘くない。自分のやりたいことを貫いたつもりでも、気づけば誰かに忖度し、それに自分の名前のラベルを貼って世に出している、ということは往々にしてある。「ベタで使い古された純正統派少女マンガ」を好んで読んできた人間としては、「忖度してもらって大いに結構」とも思うので複雑だが、劇中である人物が繰り返し放つ、「自分が本当に読みたいラブストーリーを作りなさい」という言葉は、シンプルでありながらも心に刺さるものがあった。
舞台の溶暗が好きだ。闇の中で、隣の客との境目も、自分の現在地も分からなくなる時に感じるえも言われぬ不安と、知らないどこかへ連れていかれるような高揚が入り混じる感覚が好きだ。この物語は、冒頭、ロック調の音楽とともにその暗闇に没入していく。ワクワクした。短い暗転ののち、雷鳴が響き、ある男の台詞から舞台が始まるのだが、正直最初は何が起きているのか分からなかった。「漫画家の話じゃなかったけ」と戸惑った。だが数分も経てば、その謎は解明されるから安心して欲しい。実は、本作は、「漫画家(睦月)がいる現実世界」と、「漫画家が描いている漫画の空想世界」を行き来する、いわば入れ子構造になっているのだ。ただ、舞台上では「現実」と「空想」の空間が二分されているから、2つの世界の話が同時進行しても混乱することは無い。とはいえ、物語中盤で「空想」が「現実」に干渉してくるメタフィクション的演出もある。このことで睦月は困惑しながらも次のステージに進むことができるので、個人的に注目して欲しいシーンだ。
今、台本を読みながら記憶を辿って思うのは、登場人物全員がとにかく活き活きしていたということ。みんなとびきり個性的で、しかもその一人一人にしっかりと背景がある。物語内では、準主役である担当編集者・勝村の悲しい過去がほのめかされるだけでなく、脇役であるファミレスの店長の過去についてまでサラっと描かれるのだ。みんなそれぞれに何かを抱えながらも今を必死に生きてきて、誰一人として憎めなくなってしまう。きっと、漫画の中の「憎まれ役」たちだって、ただ必死なだけなのだろう。脚本・弦巻啓太氏のキャラクターへの深い愛情を感じずにはいられなかった。ちなみに私の推しキャラは、なんでも喋り過ぎる「佐藤」だ。
「コンカリーニョ」は冷房がやや強めに効いているが、笑いすぎて体が火照るだろうから、防寒着は不要かもしれない。むせかえるような暑さが続く令和7年の夏。ひんやりとした劇場で熱いキャラクター達に会いに行ってみてはいかがだろうか。予想外の現実に直面して心が疲れている人にこそ、頭を空っぽにして観て欲しい作品だ。
札幌演劇シーズンが今年も始まった!
どんな舞台に出会えるか? わくわくしながら、なぜか不安もいだきつつ琴似のコンカリーニョへと向かう。
不安のほうは別に劇の内容にではなく、ぼくが無事「ゲキカン!」を書けるだろうか、ということなのだけれども…。
弦巻楽団の「ローリング・サンダー」。
この作品を実は初めて観るのだが、あえて何も調べずに劇場に行くことにした。
それはこれから続く「札幌演劇シーズン」という驚きの日々への、ぼくなりの敬意だ。
ともかくナマの舞台に驚きたい。演劇でしかできない世界からの不意打ちを食いたいのだ。
この不意打ちへの期待は、劇が始まって間もなくかなえられた。
ヒーローと悪党一味が登場。少年マンガっぽい立ち回りが繰り広げられる。なんだか妙だ。
ところどころで「しつこい!」とか「説明しすぎ」とかの声が割り込むように聞こえてくる。
そして、舞台奥の大きな白い幕いっぱいに「ドーン」と爆発のマンガが投影される。
舞台のほぼ中央右寄りの一段高くなった床に、テーブルを囲む人たちが浮かび上ってきた。
そこはマンガ家が仕事場代りに使っているファミレス・ジェニーズ。
マンガ家と編集担当とアシスタントが新作のネームの打ち合わせをしていて、舞台前面で演じられていた立ち回りはマンガの内容だったのだ。
ああ、これはなんて設定だ!
三つの次元が舞台の上にあるのだ。
二次元のマンガの世界。マンガ家を中心にしてネームの議論をする人たちのファミレスの世界。構想が舞台に飛び出して演じられる脳内の世界。舞台はこの多重構造で最後まで進められる。
少年マンガを描きたいと強く望んでいる新人マンガ家・睦月にやってきた執筆依頼。それはコテコテの少女マンガだった。
やりたいこととは異なる内容を強要され、それに従ってみたり反発したり、苦悩する新人マンガ家。
冒険とアクションのマンガが描きたい睦月に「純正統派の100%まじりけ無しのパーフェクトな少女マンガ」が描けるのか。
力関係は圧倒的に担当編集者である一子の方が上だ。頭ごなしにダメ出しされ、編集者の望む内容を強要される睦月。
頭の中のイメージが舞台前面で演じられては変更され、形になったり無茶苦茶になったり、女子高生のソフトな恋愛ストーリーがドタバタ喜劇になる。そしてここぞというところで、ドーンと投影されるマンガの面白さ。そのマンガがプロの恵三朗さんの作品なのだから迫力は半端ない。手りゅう弾のように笑いが客席に放り込まれる。
マンガ、ファミレス、マンガから飛び出して演じられる物語。
この3つの次元が相互に浸食しあってゆく舞台のカナメになっているのは、ひとつだけ「現実世界」として演じられるファミレスの空間。それを支える演技陣に引き込まれてしまった。
マンガ家・睦月(相馬日奈)、担当編集者・一子(木村愛香音)、アシスタント・姫子(赤川楓)、店長(町田誠也)、バイト店員(宮脇桜桃)。
テーブルを囲んでのやりとりが実に面白い。
睦月のアイデアをことごとくボツにする編集者の一子。無責任なジャブをかますアシスタントの姫子。なぜかずぶずぶと会話の中に入ってきてしまうバイト店員。「こんなことのために脱サラしたんじゃないんだ~!!」と叫んでしまう店長。
深刻なシチュエーションなのに、なんだこの馬鹿馬鹿しさは! という笑いが矢継ぎ早に繰り出される。
表現者として純粋に描きたいものがある睦月ではあるが、はたして作家側が理想としていることが本当に個性的なことなのか、画期的なことなのか、それは誰にも分かりはしないのだ。編集者が求める大衆迎合的な企画のほうが逆に傑作を生む種なのかもしれない。
軽快に繰り広げられる喜劇の奥に、そんな皮肉な現実がちらちらと顔を出す。
マンガ家の脳内から飛び出して舞台を走りまわる役者たち。企画が混乱するたびにその役者たちの性格がころころと変わるところも見どころだった。
はたして睦月の少女マンガ「アタック☆ブロック☆キス!!」は二転三転しながらどこへ行くのか。そもそもこの劇のタイトル「ローリング・サンダー」ってなんだ?
町田さん演じるジェニーズ店長はどこまで私生活を晒すのか?
アシスタント姫子が一子のライバル会社から依頼されたマンガは、はたしてどこまでエロいのか?
それは観てのお楽しみということだけれど、この作品の本当の狙いはそんなところには無いのかもしれないのですよ。
まずは劇場に行こう。そして腹をかかえて大笑いしよう。
これが演劇の醍醐味だ!
札幌演劇シーズンの暑い夏が、いよいよ始まったのである。
「すべてのマンガ家がこうだと思ってもらいたい!」
とは島本和彦の名著『燃えよペン』の一節だ。いっぽうこの舞台がすべてのマンガ家の普遍なのか僕にはわからないが、ひとつ言えることがある。
どんなマンガにも創作物にも、背景にはこれだけのドラマがある。
弦巻楽団『ローリング・サンダー』。新人マンガ家が穴埋めのため急遽、短期連載を任され悪戦苦闘する。ファミレスに籠もり、編集者にどやされ、読者の反響におびえる。
マンガ家は悩む。読者の人気を得るために描きたいものを封印するのか。それとも自分の作風を貫くのか。描きたいものを描いて読者はついてくるのか? 読者に媚びても人気が出るとは限らないし……。
かように創作というのは大変なものなのだ。
そんなありさまを本作は徹底してコメディとして見せる。そこがいい。編集者は王道少女マンガを描くよう迫る。だがマンガ家はバトルマンガを描きたくて仕方がない。はげしいやりとりが交わされ、痛切な苦悩が描かれる。だが劇としてはあくまでコメディ。近くで見れば悲劇だが遠くからだとコメディだ、と言ったのはだれだったか(チャップリンだ)。
マンガ家の創作話というストレートな題材をコメディという直球で描いてはいるが、構造は多層だ。新人マンガ家の木下睦月(相馬日奈/弦巻楽団)を中心に物語は進むが、彼女はファミレスでネームや執筆をおこない、アシスタント(赤川楓)や編集者(木村愛香音/弦巻楽団)がそこへやって来る。コーヒーのお代わりや、白熱する打ち合わせを注意しに、ファミレスの店員(宮脇桜桃)や店長(町田誠也/劇団words of hearts)がたびたびやってくるが、しだいにふたりもマンガ執筆に取りこまれていく。
睦月を中心にアシスタントや編集者の輪があって、その外にファミレス店員と店長の輪があって……というようにいくつもの輪が生まれる。編集者や店長にはそれぞれ個別の事情もあって、まるで睦月を中心に惑星が回っていて、それぞれの惑星に衛星があるようだ。
惑星であり衛星である人たちが、主人公と接点をもつことで物語や設定の奥行きを生み出す。ここが弦巻啓太脚本の特徴だ。最少の人数で物語の中に「社会」をつくる。
ここに弦巻が信用している(のだろう)ベテラン俳優が配置され、実にいい味を出す。ファミレス店長を演じた町田はおかしくも悲しい悲哀をにじませ、雑誌編集長や謎師匠、そして睦月の夢に登場するある人物(似すぎだろ!)を演じた温水元(満点飯店)は変幻自在だった。
多層な構図はさらにあって、睦月が描くマンガが舞台上で再現される。これが荒唐無稽で笑えるのだが、さらにさらに、いくつかのシーンでは舞台奥に睦月が描く「実際のマンガ」が映し出されるのだ(プロのマンガ家である恵三朗が描いている)。
役者がマンガを演じるだけでなく、「実際のマンガ」が映されるだけでなく、両方がいっぺんに現れる瞬間、なんだかすごく不思議な感慨が生まれる。なんだろうこれは。異なる正解を同時に観ているような、音楽でいうとオート・チューン? ダフト・パンクのボーカルのような感じとでも言えばいいのか、それが舞台に現れている。不思議な感覚があった。
さらにもうひとつ言うと、ドン、と巨大なマンガが舞台に映し出されると、単純だがそれだけですごさを感じてしまう。大きな絵を観るよろこびがあって意外な収穫だった。
さて気になる点はちょっとある。マンガ界の編集者がどんな人たちなのか僕は知らないが、はたしてあんな自分の主張ばかり押しつける編集がいるのか?(笑) ライバル社の編集者・弓削(櫻井保一)のヌメッとして言葉巧みなさまは、まさに編集者でリアリティがあったが。
また、睦月の恋事情にまつわる話はやや尻すぼみな印象だった。編集者・勝村の願望がマンガ世界に投影されたシーンがあったように、睦月の方もなにかあってもよかったかもしれない。
ちなみに荒唐無稽に演じられるマンガシーンは、これ単品でもけっこう楽しめるかもしれない……と、僕はけっこう好きだった。演じてる役者がみんな楽しそうだったので好印象だった。
本作は1時間40分とは思えない密度と笑いで、あっという間に終わってしまって、もっと観たい! と思いながら劇場をあとにした。
どんなマンガにも、どんな創作物にも、作者がいて、いろんな思い出があってつくられている。この劇を観たあと、マンガが、そしてすべての創作物が、いまよりもっと愛おしくなるはずだ。
今シーズン上演される8作品が発表された時から、この作品は絶対観る!と心に決めていた作品が弦巻楽団公演「ローリング・サンダー」だった。
その念願が叶い、初日の公演を観させてもらった。役者が物語が舞台が生き生きと躍動している。スピード感溢れる珠玉のエンターテイメントに客席から絶え間ない笑い声とカーテンコールでは大きな拍手が送られた。
やっぱり、劇場で観るのはいいなあ。
これからの作品を観るのが益々楽しみになるような、オープニング作品に相応しい切れ味のよいスタートダッシュだったと思う。弦巻楽団は毎回期待を裏切らない面白い作品を届けてくれる。そんな信頼を置いている。
劇場に入るなり驚いたのが、舞台上に垂れ下がったとてつもなく大きな漫画用の原稿用紙だ。しかも真っ白の。真っ白な原稿用紙=筆が進んでない原稿用紙…と反射的に脳内変換されて勝手にナーバスになってしまったが、舞台上にあるのは原稿用紙に見立てたスクリーンの幕。劇中ではこちらに漫画のページが次々と浮かび上がる。なぜなら今作の主人公は漫画家だからだ。
血で血を洗うようなアクション漫画を愛しているうだつの上がらない漫画家・木下睦月(相馬日奈さん)が、担当編集者・勝村一子(木村愛香音さん)に王道少女漫画を描くように命じられることから物語は始まる。
漫画家のいる現実の世界とキャラクターのいる漫画の世界、漫画のコマから出てきたキャラクターと漫画家が対峙する世界。これらの三つの世界が衝突し、あらぬ方向に猛スピードで突き進んでいく。木下の漫画は暴走し、ぐちゃぐちゃになっていく展開が面白い。
舞台上にある、原稿用紙に見立てたスクリーンに写し出される木下の漫画が漫画愛に溢れていて、それが画力の高さも相まって余計に笑ってしまった。北斗の拳、ジョジョと奇妙な冒険、聖闘士星矢、カイジ…等々のオマージュも。また、ヒロインの大きな瞳に星が入っているキラッキラ乙女チックな扉絵も昭和生まれのツボをくすぐられてたまらなかった。作中の漫画の作画は漫画家の恵三朗さん。圧巻の画力!
私は木下と同じく商業誌でデビューしたこともあり、なかなか共感する場面がちりばめれていた。迫り来る締め切り、紙面で求められていることと自分の描きたいことの葛藤、創作の産みの苦しみなど、木下が頭を抱えたり涙をこぼすたびに、胸がヒリヒリヒヤヒヤとしてしまい、さながら子どもを見守る親のような心持ちになってしまった。
辛辣な意見を遠慮なく言う編集者、一緒にアイディアを練るアシスタント、仕事場代わりに使っているファミレスの店長とバイト、そして自分の漫画から出てくるキャラクター達。創作は孤独な作業に間違いないが、自分の作品を待っている人がどこかに居るということ、それが創作の原動力で喜びなのだろう。物語終盤の最終話を描く場面では感動…というか、木下が羨ましくて結構嫉妬した。
あえて紙の原稿用紙とペンで描くアナログ手法を用いていたのも良かった。原稿が自分の手から他人の手へと渡り、自ずと人と人とが近くなる。演劇も同じように、人が劇場にいて初めて成立する、究極のアナログだ。役者と作り手の熱意が観客一人一人に届けられる弦巻楽団の作品が私は好きだ。