閉じこめてしまっているのは、だれなんだろう?
自分自身なのか、僕たち観客なのか、それとも脚本を書き演出した者? あるいは一緒につくった劇団員も?
劇団5454(ランドリー)『宿りして』。チラシや各種宣伝物にあえて書いてないので、まずはぼかしますが、さえない高校教師、小野(榊 木並/劇団5454)は突如として気がつく、この世界の異変に。彼女はそのせいで学校で教えられなくなり、社会生活もあやうくなるが、同僚教師たちのはげましもあり、異変を受け入れ自分が人生の主役となるよう行動するが……。
めちゃくちゃ刺激的。すごい。たいへん僕好み。シンプルな舞台装置と多くない役者の数、上演時間は1時間15分ほど。ひとつひとつのシーンのおもしろさ、サクサクと小気味よく進む展開、笑いとドラマの加減も絶妙。劇としての完成度がすばらしい。
若手演出家コンクール2022の最終審査で次点となり、審査員のひとりだった弦巻啓太(弦巻楽団)が高く評価して(審査では最高得点をつけていた)札幌公演にも尽力、結果、TGR2023で大賞をとり、今回、札幌演劇シーズンでの再演。つまりまあ、おもしろいに決まってるので、僕がここでどうこう書くよりも、とにかく観て! って言ったほうがはやい。
とにかく観て!
で、ここからあとは、「とにかく観た!」勢に向けてと、記録に残しておく意味も込めて、ぼかした部分のネタバレありで書いていきます。未見の方はここでさようなら。
高校教師、小野の異変とは、自分が演劇の一部だと気がついてしまうことだ。彼女にはときおり観客が見える。片側にみっしりと詰まった観客と客席。喫茶店で出てきたカップは空であり、テーブルやイスは舞台で使う箱足なのだ。
うまいのは、僕たち観客も空のカップや箱足だとわかっていながら、カフェオレで満たされたカップ、喫茶店のテーブルとして見ていたのだけど、それを演劇だと暴露されたもんだから、魔法が解けて一瞬にして劇場の舞台の上、空のカップと箱足に引き戻されてしまうのだ。
「王様ははだかだ!」と少年がさけんだとき、群衆が共同でつくりあげていた幻想がくずれる、それとおなじことが僕たち観客にも起こる。あの瞬間のスリリングさ、ぞわぞわと毛が逆立つ感覚は忘れがたい。
舞台において客いじりはたまにあるし、こんにちさまざまなメディアで「メタ」な視点はあふれ、「第四の壁」なんて言葉も人口に膾炙している。
しかし本作がそれらと一線を画すのはやはり、そのもの自体をテーマにしたことだろう。つまり自分が物語の一部だとわかったとき、人はなにをするのか。
前例がないわけではない。僕の映画ベストのなかの1本『主人公は僕だった』(2006年/アメリカ)では、ある男に小説の文章が聞こえてきて、自分がその小説の主人公であることを知る。いま思ってることや、これから起こることが聞こえてきて、自分が最終的に死ぬ運命にあることを知る。彼が小説家に会おうと電話すると、いまそのシーンを書いていた小説家の電話が鳴るのだ。
『主人公は僕だった』の小説家もそうだったし、この手の物語を書いた人たちもきっとそうだと思うのだけど、そこには登場人物への罪悪感があるんじゃないかと思う(僕もこの手の物語が好きでいくつか書いた)。
物語をつくり、登場人物を動かす。こちらの意向に沿うように、あるいは受け手(読者や観客)の興味を引くために人物を操る罪悪感。ほんとうは、心の奥底では、そんなこと関係なしに自由に生きてほしいのに、縛ってしまっているのだ。
だからその構造を白日の下にさらして、その人物(おもに主人公)がそこから逃れようと努力する様を描く。だけどそれもまた作者が仕向けたことなんだけど……。
過去の作品と比べて本作が特殊な点がある。自分が演劇の主人公だと気づいた小野は、主人公であろうと努力するのだけど、うまくいったりいかなかったりする。そのときに、この劇の作者に思いがいかないのだ(ここは実際の作者、春陽漁介のずるいところかもしれない)。
つまり、こんなストーリーにしやがって! とか、もっとこうしてください、とかそういう思いは皆無なのだ。むしろ小野は、自分が主人公としてふさわしいように振る舞い行動する。
彼女にとって作者はだれなんだろう? 彼女は観客の目をうかがい、主人公であろうとする。観客が作者なのだろうか。いやちがう。彼女こそが作者なのだ。自分の人生をみずからつくり、前へ進んでいこうとする。
終盤、「観客」の後押しもあり、「自由」を手に入れた姿の美しさ。そのとき、冒頭に読まれた紀貫之の短歌がゆっくり染みこんでくる。
「宿りして春の山辺に寝たる夜は 夢のうちにも花ぞ散りける」
お芝居の人生にも花はある。実際の人生のなかにも。しかし小野の“実際の人生”は僕たち観客にとっては劇の一部なわけで、だとしたらその先にさらに“実際の人生”があるのだろう。すべての人生に幸あらんことを。
初めて拝見する劇団5454(5454と書いてランドリーと読むのですね)の作品。事前に公演のフライヤーを見て、ああ、シリアスでサイレントでビューティフルな雰囲気の物語かしらん、となんとなく思い込んでいたのだが、ごめんなさい。劇場でものの見事に裏切られました。勿論良い意味で。
作品のジャンルは何かと言えばコメディに当てはまるのかもしれないが、単に笑えるコメディとはまた違って、笑えて、そして、息をのむ、はりつめた緊張感が心地よい唯一無二の世界にどっぷりと浸った。これは劇場でしか味わえない面白さだ。
今まであらゆる作品を観てきたが、まだ舞台上で面白いことができるぞ!といった劇団からの気迫のようなものを感じた。新しい風が吹き、これから演劇界隈がより面白くなる予感がして、思わず口元がゆるんだ。嬉しいなあ。
物語は初盤、授業をしていた古典教師の小野は突然目の前に現れたある現象にパニックを起こす。心配する同僚の教師らに、小野は自分の身に起きているある異変を告白する。「誰かが見ている気配がする」「教室に座っているのが生徒ではない」「笑い声や息づかいが聞こえる」と。小野が感じている「気配」の正体が何であるか観客らが気がついた瞬間に世界が逆転する。物語が持つ巧妙なマジックによって、舞台と客席が渾然一体となって駆け抜けていく。そのスピード感、緊張感は堪らなくエキサイティングだ。
同僚らの心配とはうってかわって、次々と起こる異変を楽しむ小野と同じく観客もその異変を楽しむ。「演劇」そのものがヘンテコで面白いという現象が起こる。なんだこの非日常空間は。例えば、演劇のお決まりの演出「暗転」で爆笑するとは思わなかった。あー、びっくりした。
主人公の小野をドラマチックに演じた榊木並さんをはじめ、目を引き付けられる魅力ある役者さんばかり。それぞれに華々しい存在感を放っていた。モブキャラとして大活躍だった高品雄基さんは登場するたびに笑ってしまった。
作品のタイトルの元にもなっている、紀貫之が詠んだ和歌「宿りして 春の山辺に寝たる夜は 夢のうちにも花ぞ散りける」は、日中に見た桜の花の鮮烈な余韻が夢の中にも現れたことを詠んだ和歌だ。夢と現実とが交錯する主人公の小野の心理とも重なるばかりでなく、「宿りして」を目撃した観客にも忘れられないほどの鮮やかな記憶として心に刻まれたに違いない。
それにしても、三日間の5ステージで札幌公演が終わってしまうとは何とも惜しいこと!儚く散る桜の花も演劇もいつでも見れるものではないからこそ感動もひとしお。是非劇場で目撃してほしい。
ステージに木箱が6個、縦に2列で積まれている。それだけのシンプルな設えがとりあえず開幕前の風景。
幕開けの曲が流れ暗転し、しばらくすると溶暗。
この時が小劇場BLOCHの一番華やぐ瞬間だと、個人的には思っている。
だって、近いのだ。
開幕前の風景からなんとなく想像する人のサイズがひと回り以上大きく見える。
おお、近い!
と毎度毎度思ってしまう。
この劇はまずコメディです。だから笑えます。
笑えるということでは一点の曇りもありません。
2023年札幌初演を観た人は、今回の再演もきっとまた見たいと思っているのに違いない。
だから初めての人で、かつコメディが好きな人は、これは見逃せないはず。
ステージにひとり高校教師が立っている。教科書の内容を読み上げる。
〈宿りして春の山辺に寝たる夜は夢のうちにも花ぞ散りける〉
古今和歌集の紀貫之の歌だ。
桜の花を一日たっぷり眺めてから山の宿に泊まった夜、夢の中でも花が散っていたという意味で、現実が夢を浸食し何が現実かわからなくなるという世界観。
この劇では冒頭に詠みあげられるこの一首が、舞台すべての暗喩となる。
現実と夢とが区別つかなくなるというテーマは古今東西の文芸の定番で、その代表作としては夢の中で蝶になり目覚めた後に「夢が現実か、現実が夢なのか」と思う中国の「荘周胡蝶の夢」が有名。フィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」もその範疇に入るだろう。
ところがところが、この劇は一味も二味も違う。
さて、ぼくはこの劇の面白いところを今数十行書いたところだが、どうやらどれもこれもネタばれになっているのに気づいてしまった。
20行、カット。
気を取り直し、書きなおします。
自分の授業を聴いている生徒なんているはずもない、と鬱々として教壇に立っていた女性教師小野(榊木並)は突然奇妙な幻覚や幻聴に気づき、錯乱してしまって休職することになった。
復職してきたとき、彼女はある確信を持ってしまっている。大方の予想を裏切るとんでもない確信だ。それをあえて許容するところから毎日が一転して楽しくなってしまう。
小野はいったい何を確信したのだろうか。
そこから観客はとてつもなく不思議な世界に引きずり込まれるのだ。
小野が授業中に生徒に説明する古文文法の「反実仮想」(事実に反することを想定し、仮に想像すること)こそ、この劇のキーワード。
演劇という「虚構」の中に築かれる別次元の「虚構」が、まやかしの「虚実」の中でまるで空間を歪めるようにのたうちまわる。
時には客席に照明がつき、実際の客(ぼくら)が劇中に巻き込まれてしまう場面もある。
劇の場面場面が裏表にねじれてしまい、そこからヘンテコな笑いがつぎつぎと湧き出す。
舞台上の木箱がシーンによってさまざまなモノとして使い分けられることも、本来の舞台技術の裏をかきながら虚実の象徴として使われているようだ。
同僚の女性教師、橘(岸田百波)は「理解者」役、花山(森島緑)は「常識に縛られた懐疑主義者」役。
さらに先輩教員の中年男性在原(窪田道聡)、青年教師山部(高品雄基)が「鈍感な他者」役として(高品雄基に至っては一人5役を演じるという奮闘にもかかわらず劇中で「モブキャラ」呼ばわりされるという虐待の中での熱演)、全員この異常な設定の虚実劇を見事に二重の意味で演じ切っているため、観客の感情は荒波にもまれてしまう。
ラストには更に予想を裏切る仕掛けが用意されていた。観客であるぼくは崩れてゆく虚構にただただ呆れ果て笑うしかなかった。
1時間15分という比較的短い作品ながらたっぷりと翻弄され、たっぷりと笑わされた。
虚構を大前提としている演劇が、その前提に穴を開けられるとどうなるのか。
それは思いがけずスリリングな笑いだ。
さすがTGR札幌劇場祭2023大賞受賞作。お見事でした。
劇団5454(ランドリー)は今回、札幌演劇シーズンのために演出家・役者ともども東京から札幌に来ての上演。さらに5回の公演の全てにアフタートークが用意されている。
初回は、脚本演出の春陽漁介、鶴岡ゆりか(演劇専用小劇場BLOCH マネージャー)、太田真介(コンカリーニョ 統括マネージャー)の登場。札幌演劇シーズンの過去の経過などから珍しい話が聴けた。
このアフタートークは全ての回でメンバーが変わるということなので、それも楽しみ。
見逃せない公演だ。